アラサー女のノンセクブログ

非性愛のアラサー女です。

「性欲」を「愛」だと思えない。

 

「性欲」を「愛」だと思えない。

 

性行為は遺伝子・子孫を後世に残す行為。

性欲は、生理現象のうちのひとつ。

強欲があれば、愛が無くても出来てしまう。

「性欲」と「愛」がどうしても結びつかない。

 

愛する人がいるから、セックスするのか、

セックスしたいから、愛を探し求めるのか。

 

人は、愛しているから性行為するのでは無く、

誰かと性行為する建て前や理由が必要で、

動物と違って理性のある人間達はそれを、

「愛」と都合よく呼んでいるのではないか…。

性愛者には到底理解されない思考だろうが、

そんな風に思ってしまう事もある位だ。

 

 

しかし、意外に思われるかも知れないが、

私は非性愛者だが、性欲は不思議とある。

頻度は少ないが、自己処理のために、

時々女性向けのAVを見たりもする。

(非性愛者でもする人しない人が、

存在すると思います。)

 

動物的な本能的性欲は、

非性愛の私にもあるようだ。

その点は性愛者と変わらない所だろう。

でもその性欲を誰かに

向けようとは一切思わない。

そこが性愛者との1番の違いだ。

(性欲自体が無い方は、無性欲者という

位置付けになるようです。)

 

 

性欲を愛する人に向ける事は、

絶対的な「愛」なのだろうか…?

 

性愛は、性愛者の愛情表現の1つの手段だか、

一歩間違えれば「愛の搾取」に変わる。

 

「愛しているなら、●●●してくれ!」と、

性を愛情リトマス試験紙代わりに使う、

その要求は、愛情なのか、支配欲なのか…。

 

相手をイかせたい、気持ちよくさせたいは、

「愛」なのかも知れないが、

自分をイかせてほしい、気持ちよくしては、

「欲」なのでは無いか。

 

また、その「愛」かも知れない

イかせたい、気持ちよくさせたいは、

愛情たっぷりの肩たたきや足つぼのような

健全なマッサージでは代替不可なのだろうか。

 

なぜ健全なマッサージが性行為よりも

愛する人への愛情表現として、

劣っている前提なのだろうか…。

非性愛者の私は真面目に、真剣に、

そう思ってしまうのです…。

 

しかし性愛者に言わせれば、

健全なマッサージは家族や友人、

更には他人でも誰にでも出来る事じゃないか、

性行為こそ、愛する人同士でしか、

為せない尊き秘事なのである

という主張になるのだろう…。

 

ましてやいい年したアラサー女子が

そんな小学生のような主張をしたら、

「なに今更清純派を演じてんだよ!?」

って周囲に嘲笑われるでしょう。

 

しかしそのような思考を持つ自分は、

普通と言われる『性愛者』では無く、

世の中とは違う感覚の『非性愛者』

なのだろう…と確信させてくれる。

 

 

非性愛者の私にとって、

性は、自己完結。

性と愛は、水と油のような完全分離。

性処理に生身の他者を必要としない。

性愛以外の方法で愛する人を愛する。

 

それが、

ノンセクシャル

非性愛、

ノンセク、

の中の私らしさなんです。

 

「変わってる」

「普通じゃない」

そんな自分を慈しみたい。