アラサー女のノンセクブログ

非性愛のアラサー女です。

正論を振りかざす必要は無い。

 

正論。

 

相手から身の上相談を受けた際や、

不安や弱音を吐いている時、

紋所のようにかざしてしまうもの。

 

相手から人生相談を受けたり、

不安や弱音を聞かされると、

ここぞ!とばかりに上から

解決策を提示したくなる。

 

アル中の人に、

「体に悪いから、お酒飲むのやめなよ!」

って言う。

買い物依存症の人に、

「これ以上借金して買い物したら、破産だ!」

と言う。

引きこもりの人に

「ずっと家にいないで、働きに出なさいよ!」

と言う。

 

どれも正論で間違った事は何一つ無い。

でもその正論は、

本当に相手の事を思って出た

最善の最適な言葉なのだろうか…。

 

大体正論言う時は「相手の事」よりも、

「自分の事」に意識が向いている時に

言い放たれる言葉だと私は思う。

 

「自分」が答えを知っているから教えたい。

「自分」は上手くいっているから伝えたい。

「自分」が教えてあげられるから言いたい。

弱った相手に自己顕示欲を振りかざす。

 

正論を言う事、

指摘を入れる事、

批判をする事、

否定をする事、

それは案外簡単な事だ。

出来ない人なんていない。

どんな時どんな事でも、

誰にでも出来る事だ。

 

しかし大体の場合、

相手が求めているのは、

「正論」や「指摘」じゃなくて、

「傾聴」と「共感」だけ。

 

今の自分が間違っているって分かってる。

変わらなきゃいけないのも分かってる。

このままじゃ駄目だって事も知っている。

正論の回答なんて、既に百も承知だ。

 

でもどうしようもない。

変わりたくても変えられない。

心の中にあるモヤモヤをどうにかしたい。

だからただ、私の話を聞いてほしい。

だからただ、私の話に同感してほしい。

ただそれだけ。

それ以上を求めている人は、

実はそんなにいないはずだ。

 

ただただ傾聴して、共感してくれる。

その有難い貴重な経験・体験が、

動き出す、前に進み出す

はじめの一歩となる可能性だってある。

 

相手から相談を受ける事は、

大変名誉で光栄な事だが、

相談を受ける側の人間で、

その核心に気づけている人は、

果たしてどれだけいるだろうか…。

 

相談を受ける時は

口を閉じて、耳を澄ます。

賢者は正論を言わず。

 

それが出来ないならば、

相談を受ける器には無いと思う。

一層の事潔く相談に乗るのを

断った方が寧ろ相手のためになる。

 

そう思うと実は、

正論を振りかざす機会は、

人生で殆ど皆無なのでは、

無いだろうか。

 

正論なんて、クソくらいだぜ!!!

 

自分も気をつけたいと思いつつ、

多くの人へ警鐘を鳴らす意味でも、

このブログに記しておく。

変わってますが、何か?

 

「変わってるよね。」

 

自分の気持ちや素直な感情を

正直に言う度に言われる。

 

アラサーで独身で、

結婚願望無いし、

子どもがほしい

とも思わない。

 

食欲はあるけど、

物欲全然無いし、

対人への性欲も無いし。

 

お酒は飲まないし、

ベジタリアンだし、

毎日精進料理みたいなの

ばかり食べているし。

 

人とつるむの苦手だから、

割と一人でいる事多いし、

飲み会なんて滅多に参加しないし。

 

元々変わりたくて、

意図的に変わったわけじゃない。

気づいたら色んな事が多数派と違ってた。

 

みんなは私を「変わっている」と口にする。

けれど、そうじゃない、違うと思う。

 

私は周りの視線や反応を気にせずに、

自分の気持ちや意思にただ忠実なだけ。

周りの視線や、他人の反応は、

一切気にしない。

 

皆がAランチ頼んだって、

自分がBランチ食べたかったら、

Bランチを悩まず頼む。

 

皆が空気を読んで、

同じ値段の何か頼んでも、

自分は空気を読まないで、

頼みたいものを迷わず頼む。

 

あとから

「●●だけ、Bランチだったよね」

「●●だけ、違うもの頼んだよね」

って言われても、言われなくても、

全然気にしない。

 

「協調性が無い」と言われそうだけど、

協調性は本当に必要な時だけ発動させます。

不用意で軽率な同調は、

同調圧力の引き金になるだけだから。

 

 

人間誰しも変わっている所は、

どこかしらあるはずだ。

 

100問クイズで100発100中、

平均値の答えを出す

【超スーパーアベレージ人間】なんて、

意識して答えない限り、

そうそうに現れないだろう。

 

100問あったら数問位は、

「えっ⁈、私だけこんな答えなんだ⁉︎」

「みんな私と同じだと思ったのに…」

みたいな答えが出て来るはずだ。

 

ただ、、、不思議なことに

"回答中の自身の姿を他人に見られている

という環境になったら"

自分の意に反して、空気を読んで、

無難な回答を選び出す人が出始める…。

 

生まれないはずの

【超スーパーアベレージ人間】が

この世に誕生するのだ。

 

 

みんな何かしら個性を秘めた変わり者の

資質を兼ね備えているはずだけど、

自分の気持ちより、

他人の視線や反応を気にする人ほど、

「変わってない」部類に収まりやすく、

他人の視線や反応より、

自分の気持ちを重視する人ほど、

「変わってる」部類に弾かれやすい。

 

 

元々みんな変わっていて、

一人一人違うはずだけど、

より大多数の変わっている部類に、

自分を寄せて属し「変わってない人間」

としてノーマル生きるか、

少数派の変わっている部類に、

自分を離して属し「変わっている人間」

としてアブノーマルに生きるか、

の違いだけなんだと思う。

 

 

マジョリティー集団に、

同化するのも一種の賢い処世術だ。

動物が敵や危険から身を守るために

背景に溶け込むような

柄(模様)を身にまとうように。

 

寧ろうまく生き残ってきたのは、

周りの環境に適応して、

馴染んでいった動物達なのかも知れない。

 

同化せずに異化するのは、

一種の世間への挑戦状だ。

敢えて注目を自分に向けさせて、

批判や攻撃の対象になるからだ。

 

同化するより異化する方が、

よっぽどリスクがある。

 

協調、調和を美徳とする文化。

異質を入れなかった鎖国の歴史。

自己主張や明確な意思表示は、

出る杭と見なされ打たれる

日本社会なら尚更だ。

 

 

そんな社会にいるからこそ、

私は敢えて同化せず、異化を選択し、

変人であり続けたい。

 

そうしないと、

人は1つの個です。

「自分」と「自分以外」は違います。

唯一無二の人間です。

この当たり前の「個人の尊厳」が、

より薄れていくような気がするから。

 

 

「変わっている自分」で、

胸を張って強く生きて行く。

 

変わってる、

それが私の個性です。

家族という呪縛

 

「家族」

 

家族とは、辞書の意味で調べると、

夫婦と血縁関係にあるものを

中心として構成された集団。

と定義されている。

 

「家族ってなんなんだろう…」

 

こう考えた事がある人は、

きっと何かしら「家族」というものに、

何かを抱えている人達なのかも知れない。

 

社会学者のタルコット・パーソンズは、

家族に必要な機能は以下2つだけと言う。

「子どもの基礎的な社会化」

「成人のパーソナリティの安定化」

 

つまり、

子どもに社会性を身につけさせる事。

大人が精神的に安定している事。

ただそれだけ。 

 

逆に言えば、

子どもに社会性を身につけさせず、

大人の情緒が不安定であれば、

側から見たら「家族」に映るかもしれないが、

本当に必要な「家族」の機能は、

備わっていないという訳だ。

 

 

しかし昔から日本は、

生物学的な血の繋がりや、

法学的な戸籍関係にある

共同体である「家族」を重要視している。

 

「家族なんだから」

この言葉の強制力は、

憲法に明記されているから」

と同じ位強い力を持つ。

 

家族なんだから、問答無用で

介護・ケアしなさい。

家族なんだから、自立してない兄弟を

経済的に支援しなさい。

家族なんだから、家族の犯した罪は、

家族で一生償いなさい。

 

家族なんだから、

家族なんだから、、

家族なんだから、、、

 

 

女性学の第一人者の上野千鶴子さんは、

TV番組情熱大陸で、日本には

「家族 is the bestという名の

家族の呪縛がある」と語っていた。

 

たしかに言われてみると、

本当に「家族」が何がかんでも

無条件でベストなのだろうか…。

「家族」にだってきっと、

限界はあるはずだ。

 

 

もし自分がノンセクシャルであると、

はっきり家族に示した時、

受け入れてくれない家族がいたとしたら、

私はその「家族」を

「本当の家族」だと認めたくはない。

 

もし自分がノンセクシャルであると、

はっきり友人に示した時、

受け入れてくれる友人がいたとしたら、

私はその「友人」を

「本当の家族」同然だと思うだろう。

 

 

センシティブな性的指向は、

「家族」でも、

受け入れられない時がある。

「家族」だから、

尚更受け入れられない事もある。

 

「友人」でも、

受け入れられない時がある。

「友人」だから、

逆に受け入れられる事もある。

 

 

「家族なんだから」の絶対的法則に基づくと、

「家族なんだから、身内の性的マイノリティ

を何がかんでも無条件で受け入れなさい!」

という事になるのだろうが、

現実問題そんなすんなりとはいかない。

 

ゲイ、ビアン、バイ、アセク、ノンセク…

セクシャリティーは、

今こそ徐々に受け入れられつつあるが、

1つ2つ前の世代の親やじじばばには、

まだまだ容易に受け入れがたい事実だ。

 

自分のジジババや親が

同性愛やLGBT

偏見がある可能性だって、

差別意識を持っている可能性だって、

無きにしも非ずだ。

 

実際にそれをそれとなく察して、

親や兄弟にカミングアウトせず、

悶々と日々を過ごしている人は、

少なくは無いだろう。

 

 

悪しき家族主義が残る日本の今、

大切にすべきは

「受け入れてくれるか分からない家族」

以上に

「現に既に受け入れてくれる誰か」

なのだと私は思う。

 

「家族」であるか、

「家族」じゃないか、

は重要じゃない。

ありのままの自分を受け入れくれる誰かを

改めて大切にしていきたいと思う今日この頃。

 

家族に受け入れられなくても、

受け入れてくれる誰かを

一生をかけて見つけて、

その人を「新しい形の家族」と捉えて、

大切にすればそれで良いと思う。

 

「家族」という言葉を、

「家族」じゃない誰かと

過ごした濃密な時間をかけて、

築き上げた絆と湧き上がる情で、

超えていきたい。

 

家族との間に何かしらを抱えている人が、

極端に狭い視野になってしまい、

この「家族」という共同体しかいない…

と絶望を感じる事がないように、

このブログが誰かの小さな気づきや

助けになれたらいいなと思う。

 

自分もまだまだ未熟な人間。

これから一歩ずつ成長して

魅力ある人間になっていきたい。

人を許す事の難しさ

 

許す心。

 

この世で一番難しい事。

それは許す事。

 

ぶつかってきたけど、許す。

横入りされたけど、許す。

お金を返してもらってないけど、許す。

昔いじめられたけど、許す。

 

怒る事ほど簡単な事は無い。

許す事ほど難しい事は無い。

 

ドキュメンタリーの特集で、

大切な家族を殺された被害者が、

加害者や加害者家族を恨んで責め、

一生追及し続ける様子を目にする。

 

大切な家族の命が奪われたのだ。

加害者を恨むも良し、責めるも良し、

殺された家族の無念を晴らすため、

究極その加害者を報復で殺したって、

世間からはそう非難はされないだろう。

 

加害者とその家族を

許さず恨み追及し続ける事は、

被害者家族が行う事として、

一番反射的なパターンだろう。

 

怒る事は誰にでも出来る事である。

怒る事で、

行き場のない、言い知れぬ溢れる

感情に行き場を与えてくれるからだ。

 

 

しかしあるドキュメンタリー番組で、

9.11の被害者家族の一部が、

テロを実行した加害者の家族と、

直接お互いを悼み合うシーンを見た。

 

本来なら顔を合わせる事すら嫌がるはずの

全く立場が逆な被害者家族と加害者家族。

 

はじめからすぐ和解できた訳では

無いのかもしれないし、

ある程度の長い時間や互いの努力が

必要だったのかも知れないが、

被害者家族は、加害者家族と一緒に、

自らに降りかかった深い悲しみを

お互いに共有し、悼み合っていた。

 

 

許す事は誰にでも出来る事では無い。

許す事で、

行き場のない、言い知れぬ溢れる

感情の行き先が無くなってしまうからだ。

 

 

加害者本人を許す事は不可能かもだが、

加害者の家族を許す事も実に困難だ。

それが出来る少数の被害者家族に対して、

言葉では言い表せない敬意を抱いた。

 

被害者家族は、深い悲しみの感情を

どこにしまい込んだのだろうか…。

 

彼らはその感情を引き出しに

しまい込んだのでは無く、

深い悲しみから生まれるエネルギーを

向けるベクトルを変えたのだ。

 

被害者家族は、このテロをきっかけに、

報復戦争賛成ムードが高まる

自国の大統領や、国民、世界に対して、

「暴力と報復は解決にならない。

争いが続くだけだ。」

と訴え続けたのだ。

 

加害者を法廷で裁くだけに留まらず、

新たな死・犠牲者を生み出さないために、

大統領宛にに直筆の手紙を出すなどして、

次なる未来の犠牲者を出さないために、

尽力したのである。

 

事件の真相究明のためや、

加害者の自省を促すためにも、

加害者の過失を追及する事も、

必要な通過点だと思う。

 

しかし、恨み、責め、追及する事で、

被害者や被害者家族が得られる事は、

実はそこまで多く無く、

時間や精神が削られる事が殆どだ。

案件が凶悪犯罪になれば尚更だ。

 

過去の加害者の過ちに対して、

何かをする以上に、

未来の被害者を生み出さないために、

何ができるかを考え、実行していく。

後者の方が重要な観点だと思う。

 

「そんなん、経験が無いお前の話に、

説得力なんかある訳ないやん!!」

と思われるだろうが、私もある時、

加害者に殺めかけられた経験がある。

 

はじめは加害者を恨み憎んだ時期もあった。

しかし加害者を追及してもどうしようも無い、

過去の起きてしまった事象は、

何も変えられない事実にふと気付いた。

 

それからは「今後同じような事が

世の中で起きないようにする為には

どうすれば良いか?」

という思考に行き着いた身なので、

この文をここに記しました。

 

まさに今被害者当事者である方や、

その被害者家族の方々には、

理解されない考え方かも知れないが、

私はこの思考に辿り着きました。

 

過ちが繰り返されないために、

ちっぽけな私が出来る事で、

尽力していきたい。

 

世界が平和であれ、

そう願う毎日です。

「性欲」を「愛」だと思えない。

 

「性欲」を「愛」だと思えない。

 

性行為は遺伝子・子孫を後世に残す行為。

性欲は、生理現象のうちのひとつ。

強欲があれば、愛が無くても出来てしまう。

「性欲」と「愛」がどうしても結びつかない。

 

愛する人がいるから、セックスするのか、

セックスしたいから、愛を探し求めるのか。

 

人は、愛しているから性行為するのでは無く、

誰かと性行為する建て前や理由が必要で、

動物と違って理性のある人間達はそれを、

「愛」と都合よく呼んでいるのではないか…。

性愛者には到底理解されない思考だろうが、

そんな風に思ってしまう事もある位だ。

 

 

しかし、意外に思われるかも知れないが、

私は非性愛者だが、性欲は不思議とある。

頻度は少ないが、自己処理のために、

時々女性向けのAVを見たりもする。

(非性愛者でもする人しない人が、

存在すると思います。)

 

動物的な本能的性欲は、

非性愛の私にもあるようだ。

その点は性愛者と変わらない所だろう。

でもその性欲を誰かに

向けようとは一切思わない。

そこが性愛者との1番の違いだ。

(性欲自体が無い方は、無性欲者という

位置付けになるようです。)

 

 

性欲を愛する人に向ける事は、

絶対的な「愛」なのだろうか…?

 

性愛は、性愛者の愛情表現の1つの手段だか、

一歩間違えれば「愛の搾取」に変わる。

 

「愛しているなら、●●●してくれ!」と、

性を愛情リトマス試験紙代わりに使う、

その要求は、愛情なのか、支配欲なのか…。

 

相手をイかせたい、気持ちよくさせたいは、

「愛」なのかも知れないが、

自分をイかせてほしい、気持ちよくしては、

「欲」なのでは無いか。

 

また、その「愛」かも知れない

イかせたい、気持ちよくさせたいは、

愛情たっぷりの肩たたきや足つぼのような

健全なマッサージでは代替不可なのだろうか。

 

なぜ健全なマッサージが性行為よりも

愛する人への愛情表現として、

劣っている前提なのだろうか…。

非性愛者の私は真面目に、真剣に、

そう思ってしまうのです…。

 

しかし性愛者に言わせれば、

健全なマッサージは家族や友人、

更には他人でも誰にでも出来る事じゃないか、

性行為こそ、愛する人同士でしか、

為せない尊き秘事なのである

という主張になるのだろう…。

 

ましてやいい年したアラサー女子が

そんな小学生のような主張をしたら、

「なに今更清純派を演じてんだよ!?」

って周囲に嘲笑われるでしょう。

 

しかしそのような思考を持つ自分は、

普通と言われる『性愛者』では無く、

世の中とは違う感覚の『非性愛者』

なのだろう…と確信させてくれる。

 

 

非性愛者の私にとって、

性は、自己完結。

性と愛は、水と油のような完全分離。

性処理に生身の他者を必要としない。

性愛以外の方法で愛する人を愛する。

 

それが、

ノンセクシャル

非性愛、

ノンセク、

の中の私らしさなんです。

 

「変わってる」

「普通じゃない」

そんな自分を慈しみたい。

お高く止まっている訳ではないんです。

 

「お高くとまってんじゃねぇよ…」

昔良い雰囲気だった相手から

突然迫られた時に拒絶したら、

言い放たれた言葉だ。

 

私は決してお高くとまっていた訳では無い。

自分なりに彼には性愛以外の、

別の手段・方法で色々と尽くしていたと思う。

しかし、身体接触に関しては私は頑なだった。

それが彼には気に入らなかったのだろう…。

 

付き合ってすぐ身体の関係になる人や、

付き合ってもないのにワンナイトする人が、

世の中にわんさかいる中で、

特段美人でもない平凡で普通な私が、

夜の誘いを断ったら、

「高嶺の花ぶっている」

と思われてしまったのだろう…。

 

私があの頃の自分を思い出して今思う事は、

周りやその場の雰囲気に流されず、

ちゃんと自分の思いを大切にして、

丁重に断って良かったという事だ。

(一度食わず嫌いで試した事はあったが…)

 

ノンセクの仲間に伝えたい事。

それは

「自分を安売りしないでほしい。」

という事です。

 

ノンケの性愛者は、

愛情表現の一つとして、性愛がありますが、

私達ノンセクには、

性愛という文字は自分の辞書の何処にも無い。

 

愛情表現の最終形として、

性愛が選択肢に出てくる人が殆どだが、

ノンセクのように愛情表現の最終形に

愛の選択肢が出て来ない人も数%いる。

 

 

でもノンケの人にはそれは分からない。

ノンケの女性が軽く見られないために、

「嫌です。」「まだダメです。」と、

予定調和的に誘いを3回断る事と、

ノンセクの人が本当に性行為が駄目で、

「無理です。」「出来ません。」

と断る事は、全然次元が違うのだけども、

「嫌よ嫌よはOKのうち♪」と誤解される。

 

性愛はみんなにあって当たり前だ

という前提で物事がどんどん進んでいく。

マジョリティーがどうしても優位に立つ世界。

マイノリティーは、自分で自分を守らない

と誰にも守ってもらえない…。

 

でも性愛が出来ないと自分を否定せずに、

性愛を必要しないと肯定してほしい。

 

 

ノンセク。

ノンセクシャル

非性愛。

これらの言葉はまだ認知率がとても低い。

 

昨今、ゲイやビアンは認知率が高い。

今期はゲイを取り上げたドラマも多い。

アセクシャル、無性愛者も最近ようやく

TVで特集される程関心が高まってきた。

 

でもまだノンセクの認知率は想像より低い。

まだ一時的な異性不信、異性恐怖症位に、

誤解・誤認されている面もある。

 

まだまだこれから徐々に、

認知を高めていかなければならない。

 

ノンセクという言葉が認知されて、

まずは該当者が自認を出来るようになり、

非該当者も存在に関心を寄せるようになる。

 

そして該当者・非該当者も含め、

様々な議論がなされていき、

いつの間にか段々と

空気のようにノンセクという人間が

世の中に溶け込んで行く。

 

それまでの道のりは、

まだまだ先で果てしないが、

その日はいつか必ず来るはずだ。

 

昔、鎖国していて物珍しさから、

「外人さん」と呼ばれていた外国人が、

今やグローバル化の波で日本中何処にでも

いるのが当たり前になったように…。

結局は自分が自分の事をどう思うかや。

 

「他人にどう思われるか」

を気にしている人程、

「自分が自分自身をどう思ってるか」

の視点が乏しい。

 

とあるカムアウトしていない

セクシャルマイノリティーの男性が

こう私に言った。

 

「家族にも、職場にも、友人にも、

一人前の男だと認められたいから、

結婚しなきゃならない…」

 

彼は綺麗で外面な言葉で

結婚するイイワケを並べているが、

結婚したい本当の理由はこうだろう。

 

「もう37歳にもなっちゃったよ、

さすがに37歳にもなると、

周り既婚者だけになってきたな…。

周りからは絶対自分は、

訳ありだと思われてるよな。

 

「親からも、職場の同僚や友人からも、

まだ結婚しないのか?って、

しつこく会う度に聞かれるし、

もうこの際自分も結婚しちゃおうかな。」

ってところでしょう。

 

彼はセクシャルマイノリティーの自分で

居続けるのが段々窮屈になってきて、

「結婚していない自分」「独り身の自分」

が周りからどう映っているかに耐えきれず、

結婚をして、上手いこと世俗の中に

溶け込もうとしているのかも知れない。

 

ここで押さえておきたい事は、

上記で述べた下線部を見ると分かるが、

彼の判断軸のベースが「他人の目」なのだ。

 

 

今の彼の本質的な課題は何なのか。

 

それは、

「彼自身が自分の事を嫌っている点」

だ。

 

自分自身で自分を好きになれずにいる彼は、

周りの目や周囲からの評価に

ずっと縛られ続けている。

 

「自分で」

自分の存在を認め、自己評価出来ないから、

「他人に」

自分の存在を認めてもらい、他者評価される

しか術がないのだ。

 

だから「他人に」

自分の存在を認めてもらい、

評価されるために、

結婚を試みているのだ。

 

しかし実際は彼が、

「自分」

の代わりに、

「他人に」

自分の存在を認めてもらい、

評価されるのは困難だ。

 

会社で例えると、

「自分使えないなー」って

自分で思っちゃってる人間は、

同僚や上司からも、

「使えないなー」って

思われちゃってるのと

同じようなものだから。

 

要するに自分で自分を、

欲していない人は、

他人からも欲されない

可能性が高いという事だ。

 

今の彼に求められているのは、

結婚でも無く、周りからの承認でも無く、

「自分で自分を愛する力」だ。

 

自分で自分の存在意義を見出し、

自分はこの世に必要な人間だと思え、

自分で自分自身を好きになれれば、

他人の目を気にせず、

他人の軸ではなく、

自分の軸で、自分の意思で、

自分の人生を歩めるようになる。

 

彼が今後仮に運良く結婚出来たとしても、

きっとまたすぐに虚無感に迫られるだろう。

結婚生活を続ける事も難しいだろう。

 

なぜなら「自分自身を愛せない人」は、

結婚相手を真に愛する事も、

出来ないからだ。

 

「他人にどう思われるか」

を気にしている人は一度、

「自分が自分自身をどう思ってるか」

を考えてみては、いかがでしょうか。