アラサー女のノンセクブログ

非性愛のアラサー女です。

SNS断捨離のススメ

 

最近FBをやめた。

いわゆるSNS断捨離をした。

 

人との繋がりが無くなるのに不安で、

なんとなーく続けていたFBだが、

社会人になって自分から投稿する事は無く、

基本閲覧専用になっていた。

 

でも実際は、

FBでの人との繋がりはとても希薄だった。

 

あまり親しくない遠い友達からの

有難くないお伺い・頼み事メールや、

ただただ人の結婚や出産・育児の

ニュースを拝む日々。

 

「結婚しました!」

「妊娠しました!」

「出産しました!」

「子供が●歳になりました!」

この何気ない毎日の知り合いからの投稿が

ちりつもで、自分の心を疲弊させた。

 

パートナーがいない自分、

結婚していない自分、

出産していない自分、

育児をしていない自分。

どうしても自分と比較してしまう。

 

そんな日々が嫌になり、

勇気を持ってFBを退会した。

 

しかし退会しても大切な人との関わりは、

途絶えなかったし、無くならなかった。

SNSを退会して無くなる関係性は、

最初から必要なかった関係性」

だったのかも知れない。

 

SNSを止めてから、

不思議と周りの事が全然気にならなくなった。

逆に周りの事がどーでも良くなったから、

SNSを退会出来たのかも…知れない。

「鶏が先か、卵が先か」の鶏卵問題のように、

実際の所は正直分からないが…。

 

1つ言える事としては、その頃には、

理想の自分に諦めがついて、

現実の自分を受け入れ始めていって、

他人のアベレージや情報を

判断軸として必要としなくなった。

 

「●●ちゃん、結婚するんだってー!」

って言われても、

焦る事もなく、妬み嫉みも無く、

「へー、そうなんだ!

(結婚するもしないもその人の人生やろー!)」

でスルー出来るようになった。

 

「いつ結婚するのー?」

って言われても、

「さぁ、いつだろうねぇー

(そんな事もうどーでもええわぁ!)」

って軽くあしらえるようになった。

 

人の色々に目を向ける時間が段々と減ると、

自分自身と向き合う時間が増えていく。

 

FBで人の出来事を閲覧していた時間を

自分は今どうしたいのか、

自分は明日何がしたいのか、

自分は将来どうなりたいのか、

自分にとっての幸せはなんなのか、

自分を研ぎ澄ます時間に使うようになる。

 

今抱えているモノを

思い切って捨ててみると、

本当に必要な事が見えてくる。

捨てる事は勇気のいる事だけど、

今本当に必要としている事は、

何なのかが自ずと見えてくる。

 

いっぱい抱えていると、

便利だけど、時に不自由だ。

今必要だと思っている事を疑って、

身軽になってみるのもアリかも知れない。

 

山に登る時は、

必要最低限の荷物でというように。

便利そうに見えて、

実は全然使わなかったりして、

自分の重荷になっているモノって、

意外と周りにあるよね。

何気無い価値観の押し付けはあかんです。

 

自分が思う幸せ像を

相手に押し付けないで欲しい。

 

「彼氏作りなよー、毎日楽しいよ。」

「結婚しなよー、意外と良いもんだよ。」

「子ども産みなよー、いつか後悔するよ。」

 

それは、

「あなた」が今置かれている立ち位置や、

「あなた」が今いる周りの家庭環境や、

経済状況、健康状態から思う幸せの形。

主語は「あなた」なんですよ。

モノサシは「あなた」の定規なんです。

 

「あなた」が思う幸せが必ずしも

「あいて」が思う幸せでは無いのです。

 

自分の幸せを押し付けてくる人。

そんな人は会話のやりとりから見えてくる。

例えばこんな会話。

 

A「結婚しないの?」

B「しないよ。」

A「えー、なんでなんでー?!」(圧)

B「……」

 

この何気無い

「えー、なんでなんでー?!」が、

他人の心に土足で踏み込もうとしている

という事に、相手は気づいているのだろうか。

 

外国だと、年齢や宗教政治や年収と、

同レベルで結婚やパートナーについて、

気軽に深掘りする事はタブーなのに、

日本だと、意外に聞かれる事が多い。

 

パートナーがいない理由、

結婚しない理由、

子どもを持たない理由なんて、

人に言いたく無い人がほとんどだと思うし、

他人に説明する必要も義務も無いはず。

それなのに気軽に聞いてくる人がいる。

 

個人的にはこんな会話が理想である。

 

A「結婚しないの?」

B「しないよ。」

A「そうなんだー!」

以上。

 

位さっぱり爽快にスルーして欲しい。

別に変に価値観を肯定されなくても良い、

フォローみたいなコメントもいらない。

ただただ右から来たものを、

左に受け流して欲しいのです。

 

 

「自分」は、

パートナーが欲しい、結婚もしたい、

子どもも欲しいって思ってるし、

それが自分の思う幸せの形だと思ってるけど、

「あいて」は、

そうじゃないのかも知れない…。

 

「自分」の価値観・モノサシと

「あいて」の価値観・モノサシは違う。

 

自分は自分、人は人。

必要なのは、

「あなた」≠「あいて」

の自他分離。

 

当たり前の事だけど、

忘れながちなこの事を

今一度思い出してほしい。

死際こそが人生の集大成だと思うのです。

 

人生は、何が正解で、何が成功か、

なんて分からない。死ぬまでは。

私はそう思ってる。

 

自分の人生どうなったら、死際で、

生きてて良かったと思えるかと考えた。

 

お金の心配が無く暮らせたら?

健康で百歳まで長生きしたら?

無病で老衰で死ねたら?

 

どれも違うと思う。

人の人生の価値は、

お金じゃ無いし、

生きた長さじゃ無いし、

病気の有無でも無い。

 

人の人生の価値は、

死際に心の底から泣いてくれる人が

1人でもいたかどうかだ。

 

1人でも、100人でも、

身内でも、友達でも、

「●●●が亡くなって悲しい…」と、

自分の死を心から悼んでくれる人がいれば、

その人の人生は、生きる価値があったもの

だと言って良いと思う。

だって、少なくともその人は、

自分の事を欲してくれていたって事だから。

 

憎まれて、恨まれて、

誰にも必要とされず、

死んで当然と言われなければ、

その人が生きた価値は、

ゼロではなかったと思う。

 

よくセクシャルマイノリティーの人は、

「自分は生きる意味が無い」と口にする。

 

人は生まれた瞬間から、

生きる意味がある訳では無い。

 

家族のため、子どものため、社会のため、

環境保全のため、世界平和のため、

なんでも良い適当な理由を作って、

生きる意味を自分で作っているんだと思う。

生きる意味なんて大体後付けなんですよ。

きっと。

 

ただ生きる意味を見出すために、

無理に四苦八苦する必要は無い。

 

肩の力を抜いて、

何となくボーっと生きてきたつもりだけど、

実は何かやってる些細な事が、

自分のため、誰かのためになっていて、

それが後々振り返ってみたら、

自分の生きる意味だったのかも知れない…。

位の事が本当の意味での、

「生きる意味」なのかも知れない。

 

そういう意味で、

私はこのブログを通じて、

勇気づけられたり、

励まされたりする人が1人でもいる事実が、

私の「今の生きる意味」なのかも知れない。

 

私はブログの読者に生かされてます。

ありがとうございます。

この場を借りて、御礼申し上げます。m(_ _)m

 

 

花は散るからこそ美しいのだ

 

「花は散るからこそ美しい」

 

生花は、美しく咲く時期があり、

枯れていく過程も含め魅力的なのである。

 

ドライフラワーのようにずっと満開状態を

保っていると価値が半減したように感じる。

 

恋愛も然りだ。(=恋、≠愛)

 

別れがあるから、美しいのだ。

恋愛に永遠なんてものは無い。

 

恋愛の賞味期限は約3年といわれるが、

恋愛は別れがあるからこそ、

交際期間がより輝きを増すのだ。

 

本来は永遠の愛なんてものは無く、

永遠の愛を未来約束出来る人間なんて、

この世に1人もいないはずだ。

 

世の中何があるかなんて、

誰にも分からない。

 

未来の愛についてなんて、

誰も約束をする事は本来出来ないはずで、

唯一約束出来るとしたら、

今この瞬間の愛を大切にする事位だ。

(それすら難しい人はごまんといるはず…)

 

今、その時の愛を大切に過ごし、

気づいたら結果30年、40年連れ添っていて、

所謂結婚という形式に近い形になっていた。

位の結果論の方が1番自然では無いだろうか。

 

結婚という事前の書面上の拘束力は、

本当に必要なのだろうか。

結婚は時に自由意思・選択の自由を

無効にさせてしまうのではなかろうか。

結婚をしてすぐ「一生の伴侶を得た!」と、

ぬか喜びするのは時期尚早では無いだろうか。

(結婚は、ゴールではなく、

新たなスタートだと言われるように…)

 

せめて、

「結婚をすれば万民が幸せになれる」という、

幻想をこの世から徐々にで良いから

無くしてはくれないだろうか…。

 

 

「夫婦って、

別れられる家族なんだと思います。」

とカルテットで松たか子が言ったセリフは、

大変印象的だった。

 

所詮、旦那は元他人。

別れた元カレが赤の他人になるように、

旦那だっていつでも他人になれるのだ。

元旦那がまた誰かのものになる事だってある。

嫁が別の旦那のものになる事だってある。

 

家族は基本解散が許されないが、

夫婦・恋人同士はそれが割と簡単に許される。

なんとも不思議な世の中だ。

 

一部の軽い恋愛については、

新商品が出て誰かが買い、時期が来たら、

いずれまた商品として市場に出て、

また新しい買い手が見つかって…

のループ喜劇にも感じる事がある。

 

非性愛の私にとって、

家族愛や、兄弟愛、師弟愛、友情には、

とても関心があるのだが、

特に恋愛至上主義者で、

取っ替え引っ替えの軽いノリの恋愛には、

どうしても違和感が残る今日この頃…。

遠回りが1番の近道

 

近道はない。

あとから考えると遠回りしているなとか、

無駄なことしたなと思うことも

あるんですけど、

結局それが一番近道なんですよ。
イチロー談>

 

現役引退したイチローのいつかの言葉だ。

うーん、深い…、本当にそうだと思う。

 

私も非性愛だと辿り着くまで、

みんなみたいに恋人作らなきゃって、

色々な異性と試しに付き合ったし、

みんなみたいに結婚しなきゃって、

似合わない婚活だってやってみた。

 

でも結局なんか違った。

 

色々やってみた挙句に、

最終的に「なんか違う…」ってなった。

 

「無駄なコストと時間を使ったな、あんた!」

って嘲笑われるかもだが、

私としては「なんか違う」という結論を

導き出せた事は、とても大きな収穫だ。

 

人と同じように自然に歩むだろう道を

自分はなぜか気づいたら別の道を歩んでいて、

なぜなのか全く分からず、悶々としていた。

 

だから強制的に人と同じ道を歩む

努力を敢えてしてみて、

人と同じ道を進む事に「なんか違う」と

感覚的な拒否感・違和感を感じられた事は、

やってみたからこそ得られた、

貴重な反応・収穫だった。

 

もしあの時にやってみてなかったら未だに、

目の前の難題にずっーと答えが出ず、

心に何かが引っかかった状態で、

1人悶々としていたかも知れない。

 

そういう意味で、どんな方向性であれ、

まずは踏み出してみる、やってみるって、

大切だなと改めて思った。

 

そして、何をやるも、やるなら、全力投球!

その分、結果も白黒はっきり

明確に見えてくるから。

全力投球でやって駄目だったら、

諦めも案外つきやすい。

 

気が乗らないのに、

中途半端にやってみるのはお勧めしない。

中途半端にやったら、結果もグレーで

また悶々としてしまうかも知れないから。

 

恋愛も、婚活も、

かなりの時間とコスト、心労がかかったけど、

本当の自分の気持ちに気づかせてくれた

貴重な遠回りのようで近道の体験だった。

 

ありがとう、元カレ。

ありがとう、婚活相手。

あの出会いがあったから、

今の私がいます。感謝!

非性愛の自分を受け入れられたきっかけ

 

自分がありのままの自分自身を

受け入れられるようになったきっかけ。

自分が等身大の今の自分に

良い意味で諦めがついたきっかけ。

 

そのきっかけは、坂元裕二さん(脚本家)

の作品との出会いが大きいかも知れない。

 

脚本家の坂元裕二さんの最近の作品は、

「生きづらさを抱えた人」

「多数派ではなく少数派」

のために書いていると、

NHKのプロフェッショナルで

ご本人が語っていた。

 

「anone」「カルテット」

それでも、生きてゆく

など2010年以降の作品の多くは、

光では無く、影で生きる人を取り上げている。

 

しかも影で生きる人達へ

「それでいいんだよ…」

「そのまま生きてて良いんだよ…」

と存在を肯定的に思わせてくれるシーンや

言葉が随所に散りばめられている。

 

特にカルテットの第3話で
「泣きながらご飯食べたことがある人は
生きていけます。」のセリフは、

人肌を感じる程暖かかった。

 

影でひっそり孤独に生きていた私は、

「あぁ…泣きながら飯食ってる奴って、

私1人だけじゃ無いんだぁ」って思えたし、

「他にも私みたいな人がどこかにいるんだ」

「この経験があるからこそ生きていけるんだ」

って思えた。

 

坂元裕二さんは、

同じくNHKのプロフェッショナルで、

「10元気な人が100元気になる作品は沢山ある。僕はマイナスにいる人がゼロになる。そこを目指してるから。」

と述べていた。

 

まさに私みたいな人間は、

マイナスが更にマイナスにならないように、

日々四苦八苦していた時で、

アンハッピーがいきなりハッピーに

ひっくり返るなんて劇的な変化は望んで無くて…

アンハッピーがこれ以上アンハッピーに

ならないように日々祈ってた身だった。

 

そんな時、坂元裕二さんが作品を通して、

影に生きる人達に敢えてスポットライトを

当ててくれて、その人なりに全力で必死に

生きている姿を暖かく肯定的に描いてくれて、

気持ちがふっと軽くなって、

何か救われた気持ちになった。

 

以前触れた是枝監督も然り、

そんな人にエネルギーを与える作品・監督は、

本当に偉大だと思う。

 

世の中は、全然平等なんかじゃ無い。

スタートラインはみんなバラバラだ。

産まれながら持っているものもバラバラ。

 

シード権を獲得している人間も居れば、

敗者復活戦から挑戦しなければ、

ならない人もわんさかいる。

お金で勝利を買おうとする人だっている。

 

でも人生という大会で

優勝にこだわらなくても良いと思う。

勝ち進むだけが正解じゃない。

上に登りつめるだけが

人生の全てでは無い。

 

試合に負け負けだったとしても、

途中棄権になったとしても、

その試合の過程で、

どれだけの人を勇気付けられたか、

どれだけの人を感動させられたか、

どれだけの人の価値観を好転させられたか、

も大切な観点の一つだと私は思う。

 

結果じゃなくて、努力の過程から生まれる

副産物・付随物の方が私は大切だと思う。

 

優勝して自分だけが満足に浸っていても、

実は蓋を開けみると周りには何一つ、

感動や喜び等を与えられていない人生なんて、

生きた証にも残らないし、何の価値も無い。

 

せっかく生きるんだから、

歴史の教科書の1pに刻まれはしなくても、

良い意味で自分が生きた証を残したい。

 

後悔の無い人生なんてきっと無いんだから、

あれも失敗したし…、

あれもやっちゃった…けど、

何かたった一つだけでも、

世のため人のためになった事があって、

良かったなぁって思って、最期は死にたい。

 

価値観は人それぞれだけど、

私はそう思うのです。

 

平凡な生活の尊さ

 

私は普段普通のOLとして働いている。

 

周りの同僚も、関わる取引先の方も

普通に平凡な道を生きてきた

普通の人間だと思っているだろう。

 

実際は、茨の道。

自分と同じ境遇の人間がこの世の中に

何人いるだろうと考えてしまう位。

 

ある日を境に自分の人生は、

奈落の底に落ち切った。

(その話はいつか出来たらと思う…)

 

そして私は全てをリセットした。

 

地方から匿名性の高い都市に出た。

社会に出る前に帰化し、名前を変えた。

小中高大の友人知人とは関係を絶った。

親とも縁を切った。

(犯罪者のその後みたいな人生……)

 

全てを捨てて、

誰も私の事を知らない世界で、

再スタートを切った。

 

そうでもしないと、

今のように生き続ける事は、

恐らく難しかっただろう。

 

その経緯があるから、

今何でもない平凡な人生が

幸せに感じて仕方ない。

 

何にも起きない一日が尊い

退屈な変わりばえの無い

ルーティンのような毎日が愛おしい。

 

特段楽しい事や喜ばしい事、

刺激的な出来事なんて要らない。

 

恋人も要らない、

結婚も要らない、

自分の新しい家族も必要ない。

一人で過ごす平坦な道で十分だ。

 

寧ろいつかこの平凡に慣れてしまい、

少しの刺激や変化を求めたり、

不必要な欲が出てしまうのでは無いか、

と思うと甚だ恐ろしい。

 

全てを失って気づいた平凡な毎日の有難さを

噛み締めて、これからも質素に慎ましく

暮らし続けていきたい。

 

これ以上何にも要らない。

神様、お願いです。

何にも持たない私から、

これ以上何にも奪わないでください。