アラサー女のノンセクブログ

非性愛のアラサー女です。

怒りの矛先がある有り難さ

 

以前、

「獣になれない私たち」第8話を見たら、

個人的に刺さる言葉があった。

 

根元恒星(松田龍平)が言ったセリフ。

 

「一矢報いたい人が

目の前に居ていいですね。

経理部長が気に入らないなら、

声を上げればいい。

殴ればいいじゃ無いですか。

目の前に敵が居るのだから。

本当に苦しいのは、

敵が誰だが分からない時です。

誰に怒って良いのか分からない。

消化できない怒りのことでしょ」

 

本当にそう思う。

 

誰かに何か悪い事や嫌な事をされても、

怒りの原因や対象がはっきりしていて、

その人に直接怒る事が出来たり、

何らかの形で仕返しする事が出来るのは、

不運ながらも、実は恵まれていると感じる。

 

1番辛いのは、

何か悪い事をされたり、嫌な事があっても、

怒りの矛先をどこにも向けられない事だ。

 

怒りたいけれど、

怒る相手がいない虚しさ…。

 

 

セクシャルマイノリティーについても、

これが当てはまる気がする。

 

マイノリティーとして生まれ、

LGBTに偏見がある日本社会で、

自分を殺して生きなければならない。

 

マイノリティーとして生まれた宿命への、

悲痛な叫びを、一体誰に訴えれば良いのか。

 

親?家族?友達?社会?

いいえ、怒りの矛先はどこにも無いのです。

 

マイノリティーで生まれた運命は、

神様の悪戯のようなもので、

親のせいでも、誰のせいでも無いから、

誰にも怒る事は出来ない。

 

だからこそ、

辛い、悲しい、虚しいのです。

 

自分で、その宿命を受け入れ、

自分のなりにその運命を解釈し、

自己消化するしか解決の術は無いのです。

 

辛い苦行だけれど、

心にある消化出来ない怒りの氷は、

自分の温かさで、溶かして無くすしか無い。

 

どうしてセクシャルマイノリティ

になって生まれてしまったんだ…と、

決して自分を責めてはいけません。

 

セクシャルマイノリティーで生まれたのは、

乗り越えられると判断され、

乗り越えるべきと与えられた、

自分に課された人生最大の試練なのです。