この前の飲み会で、ナショナリティーとか、
セクシャリティーとか諸々の多様性について、
議論する機会があって、
そこで「無性愛」の話題がぽんと出た。
その場にいた1人の女性が、
憐れむような表情でこう言った。
「世の中には、
人を好きになれない人間がいるらしい…」
うん。
彼女の発言は、全く悪気は無かった。
きっと彼女の中では、
キュンキュンと恋愛するのが当たり前で、
人に恋愛感情を抱かない人は、
ちょっと人生損してる、
可愛そうだと思ったのだろう。
その後、話は広がり、
今度は「富と貧困」の話になった。
そこでも彼女はこう言った。
「水を飲むのも一苦労の貧困な彼等が
とても可愛そうに見えた」
そこで私は、彼女にこう返してみた。
「もしかしたら彼等は逆に、あなたを見て、
時間と労力をかけて、井戸からくんで飲む
水の美味しさを知らないなんて、可愛そう!
って思っていたりするかもですね。笑」
さらに私は続けて、こう話した。
「先進国と言われる我々のように、
簡単に綺麗な水が飲めた方が良いというのは、
貴方の価値観でしかない。」
「彼等にもきっと彼等の価値観があり、
彼等は蛇口をひねればすぐに出てくる人口水に
価値を置いていないかも知れない。」
それを聞いた彼女の表情は、
ハッとしていた。
そう。
「井戸から時間と労力をかけてくんできた水」
と
「蛇口をひねれば簡単に出てくる水」
どっちがより哀れで、人生損してるかなんて、
誰にも決めつける事なんて出来ない。
もしかしたら、
「蛇口をひねれば簡単に出てくる水」
ばかり飲んで、水の存在の有り難みや、
自然から湧き出た水の美味しさを
忘れた我々こそが、実は哀れで、
人生を損してるのかも知れない。
この話は、セクシャルマイノリティーにも
通ずるものがある。
ストレートな人間からしたら、
恋愛感情のない無性愛者や、
性行為をしない非性愛者は、
人生損してるって思うかも知れない。
けど、非性愛者の私は真面目に、
一時的な男女の感情や、性欲に左右されず、
人とプラトニックな愛の関係性を築けるのは、
人生得してるかもって思ってる。
私は非性愛で満足しているのです。
非性愛で良かったと思っているのです。
だから、非性愛者の私や、無性愛者の誰かを、
奇異な目、可愛そうな目で見ないでほしい。
他人の目からしたら、
私達は異質で、哀れな人間に見えるんだ…と、
間接的に感じ取ってしまうから。
哀れだと誰かから思われた瞬間に、
自分が哀れの身になってしまうから。
他人から自分が哀れと思われる事自体が、
実は1番の哀れなのです。
拝読頂きありがとうございました。