アラサー女のノンセクブログ

非性愛のアラサー女です。

家族という呪縛

 

「家族」

 

家族とは、辞書の意味で調べると、

夫婦と血縁関係にあるものを

中心として構成された集団。

と定義されている。

 

「家族ってなんなんだろう…」

 

こう考えた事がある人は、

きっと何かしら「家族」というものに、

何かを抱えている人達なのかも知れない。

 

社会学者のタルコット・パーソンズは、

家族に必要な機能は以下2つだけと言う。

「子どもの基礎的な社会化」

「成人のパーソナリティの安定化」

 

つまり、

子どもに社会性を身につけさせる事。

大人が精神的に安定している事。

ただそれだけ。 

 

逆に言えば、

子どもに社会性を身につけさせず、

大人の情緒が不安定であれば、

側から見たら「家族」に映るかもしれないが、

本当に必要な「家族」の機能は、

備わっていないという訳だ。

 

 

しかし昔から日本は、

生物学的な血の繋がりや、

法学的な戸籍関係にある

共同体である「家族」を重要視している。

 

「家族なんだから」

この言葉の強制力は、

憲法に明記されているから」

と同じ位強い力を持つ。

 

家族なんだから、問答無用で

介護・ケアしなさい。

家族なんだから、自立してない兄弟を

経済的に支援しなさい。

家族なんだから、家族の犯した罪は、

家族で一生償いなさい。

 

家族なんだから、

家族なんだから、、

家族なんだから、、、

 

 

女性学の第一人者の上野千鶴子さんは、

TV番組情熱大陸で、日本には

「家族 is the bestという名の

家族の呪縛がある」と語っていた。

 

たしかに言われてみると、

本当に「家族」が何がかんでも

無条件でベストなのだろうか…。

「家族」にだってきっと、

限界はあるはずだ。

 

 

もし自分がノンセクシャルであると、

はっきり家族に示した時、

受け入れてくれない家族がいたとしたら、

私はその「家族」を

「本当の家族」だと認めたくはない。

 

もし自分がノンセクシャルであると、

はっきり友人に示した時、

受け入れてくれる友人がいたとしたら、

私はその「友人」を

「本当の家族」同然だと思うだろう。

 

 

センシティブな性的指向は、

「家族」でも、

受け入れられない時がある。

「家族」だから、

尚更受け入れられない事もある。

 

「友人」でも、

受け入れられない時がある。

「友人」だから、

逆に受け入れられる事もある。

 

 

「家族なんだから」の絶対的法則に基づくと、

「家族なんだから、身内の性的マイノリティ

を何がかんでも無条件で受け入れなさい!」

という事になるのだろうが、

現実問題そんなすんなりとはいかない。

 

ゲイ、ビアン、バイ、アセク、ノンセク…

セクシャリティーは、

今こそ徐々に受け入れられつつあるが、

1つ2つ前の世代の親やじじばばには、

まだまだ容易に受け入れがたい事実だ。

 

自分のジジババや親が

同性愛やLGBT

偏見がある可能性だって、

差別意識を持っている可能性だって、

無きにしも非ずだ。

 

実際にそれをそれとなく察して、

親や兄弟にカミングアウトせず、

悶々と日々を過ごしている人は、

少なくは無いだろう。

 

 

悪しき家族主義が残る日本の今、

大切にすべきは

「受け入れてくれるか分からない家族」

以上に

「現に既に受け入れてくれる誰か」

なのだと私は思う。

 

「家族」であるか、

「家族」じゃないか、

は重要じゃない。

ありのままの自分を受け入れくれる誰かを

改めて大切にしていきたいと思う今日この頃。

 

家族に受け入れられなくても、

受け入れてくれる誰かを

一生をかけて見つけて、

その人を「新しい形の家族」と捉えて、

大切にすればそれで良いと思う。

 

「家族」という言葉を、

「家族」じゃない誰かと

過ごした濃密な時間をかけて、

築き上げた絆と湧き上がる情で、

超えていきたい。

 

家族との間に何かしらを抱えている人が、

極端に狭い視野になってしまい、

この「家族」という共同体しかいない…

と絶望を感じる事がないように、

このブログが誰かの小さな気づきや

助けになれたらいいなと思う。

 

自分もまだまだ未熟な人間。

これから一歩ずつ成長して

魅力ある人間になっていきたい。