アラサー女のノンセクブログ

非性愛のアラサー女です。

好意とアプローチについて

 

『好き避け』

『嫌よ嫌よも好きのうち』

『嫌いは好きの裏返し』

 

この言葉達の存在が本当に

嫌だった場合に邪魔をする。

 

恋愛において、嫌いな相手には態度などで、

白黒はっきり示す事が多い気がする。

しかしたまに好きな相手にも好きなのに、

グレーな態度をとる場合がある。

 

好きだけど簡単に手に入るEasyな人

と思われないように一度は振ってみる。

好きだけど自分が軽く思われないように

数回はアプローチを拒否してみる。

 

こんなやりとりが白と黒の間にある

グレーの面積を広げてしまっている。

 

好意を寄せられて割と迷惑と感じていたり、

若干の恐怖心を抱き、物理的に相手との

距離を置き、接点を減らそうとしているのに、

何故か相手は更に距離を詰めてこようとする。

 

 

お相手は悩む中で何かにすがる思いで、

『好き避け』

『嫌よ嫌よも好きのうち』

『嫌いは好きの裏返し』

みたいな今自分が欲している丁度いい言葉を

ネットでググって見つけてきたのだろうか?

 

 

好意に対して嫌悪感や恐怖感を抱いたから、

当たり障りないように避けているのに…。

恋のシーソーゲームに乗ったつもりは無い。

 

 

漫画【クズの本懐】の第1巻で

『興味のない人から向けられる好意ほど

気持ちが悪いものってないでしょう?』

という中々パンチ強めの台詞があるが、

自分の好意が100%相手に喜ばれるものでは

無いという事を頭の片隅に留めておきたい。

 

 

思わせぶりな態度を取ったつもりもないし、

好いてもらおうと何かしたつもりは全く無い。

しかしそれは自分から振り返ってみた記憶。

 

お相手からして見れば、自分を好きになる

何らかの些細なきっかけがあったはずで、

そんなつもりは全く無かったと言っても、

相手には一切通用しないのだろう。

 

好きになるのも嫌いになるのも自由だが、

好きと思われる事や嫌いと思われる事は、

相手次第で自分ではどうしようも無い事。

NOT コントロール

 

ただ淡い恋心を抱くのは本人の自由だが、

密かに好意を寄せている相手に対して、

何か行動に移しアプローチし始めたら、

自分の気持ちだけでもう動いてはいけない。

お相手の様子や反応を都度見極めてほしい。

 

『恋』という名のプレゼントを受け取るか、

受け取らないかの判断は相手に委ねられる。

一方的なコミュニケーションから、

相互のコミュニケーションに移行する。

 

渡した『恋』のプレゼントは、

受け取られて当然では無いのだ。

 

自分の気持ちを行動に移すという事は、

それ位の想定と覚悟を持って望むべきだ。

 

嫌がられるはずが無い、

避けられるはずが無い、

断られるはずが無い。

そんな事は誰にも分からない。

 

カルテット第1話で巻真紀がこう言っていた。

「人生には、三つの坂があるんですって。

上り坂、下り坂、まさか。

絶対なんてないんです。

人生ってまさかなことが起きるし、

起きたことはもう元に戻らないんです。

レモンかけちゃった唐揚げみたいに。」

 

アプローチという実行に移した時、

新しい何かの始まりかも知れないし、

終わりの始まりかもしれないと考えても、

決して悲観的に考え過ぎでは無いと思う。

積み木くずし

 

我が積み木は常に不安定な状態で、

誰かが1つでもその積み木に手を触れたら、

すぐにでも崩れてしまいそうなほど脆い…。

 

我がカゾクは何十年も前からそういう状態だ。

 

我が積み木は今、崩れないように

恐る恐る箱の中に慎重に運び入れて、

誰一人にもその箱を開けられないように

奥底にしまいこんでいる。パンドラの箱

 

自分にとって頼れる家族は誰もいない。

今までもこれからもきっと何かある度に、

何かを無心され続けるだけのカゾク。

 

 

 

昔借金をしている男性と少しだけ、

交際していた話をした事があったと思うが、

彼は借金があったが、実家もちゃんとあって、

仲が良いと自慢する家族・可愛い愛犬もいた。

 

年末年始の帰省時期になると、

彼は当たり前のように、

実家に帰省していった。

 

彼はきっと私も当たり前のように、

実家に帰省していると思っていたのか、

私の家族の事や帰省先や帰省期間について、

交際期間中に何一つ聞いては来なかった。

 

何気なく送られてくる家族団欒の様子や、

実家の母親が作った夕食や愛犬の写真。

 

何十年も忘れていたような懐かしい光景、

本当に幼い頃に薄っすらと体験したような、

両親兄弟勢揃いの様子がそこにはあった。

 

 

かたやその画像を見ている自分は、

その時何をしていたかというと、

唯一家族に近い存在といえる人間と一緒に

広くはない賃貸のワンルームのアパートで、

TVやネットを見たり買い物に出かけたりして、

年を越すまでの時間を過ごしていた。

 

実家は無いし、決まった帰省先も無い。

年末年始、家族・親戚で過ごす団欒は、

年を重ねるにつれて無くなっていき、

20歳位を過ぎてからはもう皆無だ。

 

 

この話をしていると、

長澤まさみ高橋一生の映画、

嘘を愛する女」を思い出す。

 

あの映画を見ると、大体の人達は、

恋人に嘘をつかれて、真実に迫ろうとする

長澤まさみ側に自分を投影するだろう。

 

でも私はどちらかといえば、

恋人に身分などを偽り嘘をついた正体不明の

高橋一生側に自分自身を投影してしまう。

 

 

世の中には「嘘を愛する女」の

高橋一生が演じた男性のように、

様々な負の事情を抱えてしまい、

身内に犯罪を犯した人がいるだとか、

毒親やストーカーから逃げるためとか、

夜逃げや蒸発や家族離散をしたとかで、

周りのように自分の身の上話をしたくても、

中々出来ない人達がきっといる。

 

自分の事を隠したくて隠している訳じゃ無く、

本当は嘘をつきたくてついている訳でも無い。

生きる過程の中で、自分自身や家族に関して、

堂々と自己紹介が出来なくなった瞬間があり、

とある時から固く口を閉ざしたままの人達。

 

 

質問されない限り黙って答えなければ、

不必要な嘘をつかずに済むのだけれど、

質問されたら、本当は黙秘権を使いたいが、

余計に興味を引きつけて突っ込まれるから、

当たり障りのない嘘の回答をするしかない。

 

 

恋人にそんな嘘をつくなんて酷すぎとか、

恋人にそんな大事な事を言わないなんて、

あり得ないとか思う人もいると思うけど、

そういう人は大体、何も隠す物が無い、

クリーンな人がほとんどなのかも知れない。

 

 

ただ重い話や1人じゃ抱えきれない話を

大切にしている相手に話してしまい、

辛い気持ちにさせずに済むのなら…、

自分の辛さや苦しみの幾分かを不用意に、

相手に背負わせないで済むのなら…、

そして相手に話して他の誰かに

話されてしまうリスクも若干恐れて…、

ただ嘘を重ねて生きざるおえない。

 

 

世の中の悩みは、大体3種類に分かれる。

吐き出す事でほぼ解決している悩みと、

誰かに相談すれはどうにか解決される悩みと、

言っても何も変わらずどうにもならない悩み。

 

例えば、あの彼の借金の話は、

誰かに言えばお金を少し貸してくれる人や、

肩代わりしてくれる人がいるかも知れない。

たとえお金は貸してくれなかったとしても、

相談位にはのってくれたかも知れない。

 

しかし身内の誰かが死刑囚だという悩みは、

過去の変えがたき事実でしか無くて、

自分自身の事でも無く、身内の事だから、

誰に何を言ってももうどうしようも無い。

言う事で得られる事は限りなく少なく、

ほぼリスクでしか無い悩みだ。

 

 

言っても何も変わらずどうにもならない事は、

上手な嘘をつかないとこの世の中を上手く

渡り歩いていけない、生きてはゆけない。

本当の事を洗いざらい話さざる得ないなら、

それは限りなく「死」を選ぶに等しく近い。

 

でも「死」を選択せずに、

なんとか生きようとして、

世の中の影に隠れながら、

ひっそりと粛々と毎日を

生きている人がいる。

 

積み木くずし。

私が一番この世で恐れている言葉。

私もあの積み木を誰にも崩されないように、

これからも嘘を重ねていくのだろうか…。

変わりゆく世界の中で

 

婚姻率は、1947年の1.20%がピーク。

それから徐々に下がり、2019年は0.47%。

 

生涯未婚率は、

1950年頃は男女ともに1.5%前後だが、

2040年頃には男性30%、女性20%にまで

増えていくと予想されているらしい。

 

離婚率は、2000年位が2.0%以上でピーク。

(江戸時代の離婚率はもっと高いそうで)

2000年以降は、減少傾向にあるようだが、

それでも3組に1組が離婚する時代。

 

1人の女性が一生の間に産む子どもの数は、

1945年の第一次ベビーブームは4.23人、

2019年は、1.36人だ。

 

1945年頃は、お見合い結婚6割、

恋愛結婚2割だったが、

2009年頃は、お見合い結婚1割未満、

恋愛結婚9割だ。

 

専業主婦率は、1985年は25%、

ここ約40年で共働き世帯が増え、

専業主婦世帯と数が逆転し、

未来の2026年には、専業主婦率は、

10%以下になる予想がある。

 

1日1日を普段通りに生きていると、

なんとも変わりばえしない世界だが、

今と何十年前とを比較してみると、

色々と変わってきていると実感する。

 

世の中は変わっていく。

良い方向にも、悪い方向にも、

どちらにも変わっていく可能性がある。

 

あの時世の中の多数派だった事が、

時代が流れて少数派になる事もある。

あの時はまだ珍しいと思われていた事が、

時代が変わって珍らしくなくなる事もある。

 

ここまでの話を聞くと、

今は自分が少数派の人間だとしても、

将来的に多数派の人間になるかもしれない…

と期待や希望を抱く人もいるだろう。

 

しかし自分の選んだ道が、

多数派の中にいるのか、

少数派の中にいるかは、

そんなに重要じゃない。

 

その時それが自分にとって、

1番だと思う選択・決断であれば、

多数派か少数派は関係は無い。

 

たまたまその決断が皆も選んだ選択だった。

たまたまその決断は他は選ばない選択だった。

ただ、それだけだ。

 

皆がこっちを選んでいるから、

私もこっちを選んでおこう。

皆はこっちは選ばないから、

私もこっちは選ばないでおこう。

 

こういう考え方も実際あると思うし、

こういう考え方をする時もあって良いと思う。

 

ただ、この考え方を無意識に続けていくと、

いずれ自分自身を見失う時が来ると思う。

 

あれ?自分って何がしたいんだっけ?

あれ?自分ってどこに向かいたいんだっけ?

あれ?自分で自分の事がよく分からない…。

 

 

今日から他人から映る自分を気にせず、

自分の本音・本心に耳を傾けよう。

自問自答する習慣を身につけよう。

 

他人の意見やアドバイスを聞くのでは無く、

まずは自分自身に常に問いかけてほしい。

 

「自分は何がしたいのか?

自分はどうなりたいのか?

自分の幸せの形とは何か?を。」

 

日本人は良くも悪くも、

周りの様子を伺い過ぎる。

 

あなたはどうしたいの?

あなたは何が良いと思う?

あなたはどっちが好き?

あなたはこれは嫌いなの?

 

海外に行けば当たり前のように聞かれる

自分の意見を述べたり、意思を伝えるための、

この質問に対し、曖昧に答える人が多い。

当たり前の事のようで、想像以上に難しい。

 

あなたが今選んだその選択は、

本当にあなた自身がしたい事ですか? 

 

明日から少しこの言葉を

意識して過ごしていこう。

今届けたいメッセージ

 

強く生きる。

 

自分で自分を信じてあげる。

自分の事を1番知っているのは自分。

両親、兄弟、友人だって、自分では無い。

 

自分を何よりも1番大切にする。

自分を大切に出来て誰かを大切に出来る。

傷つけてくる人を相手にしてはいけない。

 

周囲の言動に惑わされない。

少数派、珍しい、変わってるからって、

周りを見て自分自身を見失う必要は全く無い。

 

自分にとっての最適解を探す。

家族や自分以外の誰かにとってでは無く、

自分にとって最良最善は何かを探そう。

 

自分の立場を逆手にとってみる。

自分でネガティブに捉えている事の数々も、

何かのきっかけでポジティブになる事もある。

 

誰にでも簡単に出来る事ではなくて、

自分にしか出来ない事をじっくりと探す。

自分だから出来る事は人生の武器になる。

 

何か小さなアクションを起こしてみる。

無理に大胆な行動に移す必要は全く無い。

でも何かしてみると見えてくる事も何かある。

 

自分の決断に自分で責任を持つ。

自分が意思を持って進むべき道を決めたら、

その先の結果は仮に後悔しても受け入れる。

 

無理に似ているもの同士で群なくても良い。

似た者を見つけたって、似ているようで、

実は違う所は沢山ある。一喜一憂はしない。

 

100パーセントは無いと思っておく。

自分を肯定してくれる人がいたら、

自分を否定してくる人も必ずいる。

世の中全員に受け入れられるのは幻想に近い。

 

優しい仮面をかぶって近づいてくる人がいる。

同じ分類の人間のフリをして弱味につけこむ。

見知らぬ誰かに頼らず、自分を頼れば良い。

 

自分の軸がしっかりしていれば、

多少の雨風にさらされても大丈夫。

時間をかけてじっくり深く根ざしていけば、

ちょっとの事では案外動じなくなる。

 

今の生き方がスタンダードでは無くても、

未来のスタンダードになるかも知れない。

 

未来の生きる選択肢を増やすために、

新しい生き方を今から徐々に開拓していく。

 

遠い50年、100年先の未来を見つめながら、

今の時代の中を自分に正直に生きていく。

ここにいるよ!と堂々と言える日まで

 

 

ここにいるよ。

 

マイノリティーと言われる人間は、

あなたの隣に、すぐ側に。

 

性的少数派という所謂「変わり者」は、

空気のように粛々と今を生きている。

 

ノンセクの私は、

透明人間のように、

誰の目にも映らない。

 

まるで伝説の河童みたいに、

言葉は聞いたことはあるけど、

見た人は誰もいない存在。

 

 

正直に自分をさらけ出したい。

素直に自分の気持ちを語りたい。

自分が自分である事を打ち明けたい。

 

 

でも、今生きてるこの場所では、

はみ出してはいけないと教わり、

馴染まなければならないと教わった。

 

 

できる限り平均値でなければならない。

出る杭は打たれるから目立ってはいけない。

だからありのままでいる事が許されない。

 

 

息を止めるかのように、

息をしていないかのように、

まるで生きていないかのように。

死んでいるかのように生きる。

 

 

こんな自分が生きる価値って何だろう。

生きる必要はあるのだろうか。

死んだように生きる意味はあるのか。

 

虚しい、悲しい、辛い、怖い。

 

こうさせた社会が悪いのか。

こうなった私自身が悪いのか。

考えれば考えるほど沼に落ちる。

 

 

私は決めた。

一生をかけて、ゆっくりと、

透明人間から抜け出そう。

 

人生をかけて透明度を調整していく。

透明度100%の完全透明人間から、

徐々に透明度を下げていき、

いつか透明度0%のありのままの

自分をさらけ出す事を目指して。

 

その決断をしてから、

約3年の歳月が流れた。

 

透明度100%だった自分は、

少しずつ、徐々に、でも確実に、

透明度は下がってきている。

 

正直まだまだ透明度は高いけど、

ゆくゆくは誰といても、

どこに居ても、どんな時でも、

ありのままの自分でいられる事を

焦らずゆっくりと目指したい。

 

 

私はここにいるよ。

あなたはどこに居ますか?

何をしてますか?

どう過ごしていますか?

当たり前が当たり前じゃない事が当たり前。

 

当たり前が当たり前じゃない件。

 

♪当たり前ー、

♪当たり前ー、

♪当たり前体操。

♪チャンチャン。

 

幼稚園の頃は、よく親に

「どうしてママは結婚したの?」

「どうしてみんな仕事に行くの?」

「どうして空から水が落ちるの?」

「どうして犬は足が4本あるの?」

なんて、純粋無垢に聞いていたけれど、

大人になるにつれて、色々な事が

「当たり前」で当然なモノに変わった。

 

何も不思議に感じなくなった。

何も疑問に思わなくなった。

何もなんとも感じなくなった。

 

それは所謂、脳の停止、

思考の麻痺症状に近い危険な状態だ。

好奇心を失い、疑う事をやめ、

考える事を放棄した事に等しい。

 

 

「当たり前」という名の「常識」は、

その時代の固定観念に過ぎない。

 

天動説が当たり前だった時代から、

地動説が当たり前になったように。

 

離婚はタブーだった時代から、

離婚は良くある話の時代になったように。

 

「常識」だと思った事がいずれ、

「非常識」になる事がある。

 

アインシュタインは、

「常識とは、18歳までにみにつけた

偏見のコレクションのことをいう。」

と言っていた。

 

デカルトは、

「常識とは、この世で最も広く

分配されている日用品である。」

と言う。

 

ヴォルテールは、

「偏見は、愚か者たちが使う理屈である。」

と語る。

 

スティーブ・ジョブズは、

「常識?あ~、

凡人が仲良く生きるためのルールか!」
と言い放つ。

 

「常識」は、その時点の多数派の

一見解にしか過ぎない。

「非常識」は、未来の多数派の

常識になるかも知れない。

 

 

最近、ふと思った事がある。

クラシックバレエを習う男性。

ピンク色のランドセルを買う男の子。

スカートをはく男性。

 

それについて

「常識的に考えて」「普通に考えて」

の枕詞をそえて、

「変だ」「変わってる」という人がいる。

 

しかしそう思う事自体が、

そう思うその人自身が、

「変であるかもしれない」事に、

気付かないのだろうか…?

 

なぜバレエを男性が習ってはいけないのか。

なぜピンク色は女性の色と決めつけるのか。

なぜ女性はズボンを平気で履くのに、

男性がスカートを履いてはならぬのか…。

 

「変だ!」という人は、この質問に対して、

納得し得る回答を出してくれるだろうか…。

 

ニュースでたまに

「恋愛しない草食男子が急増!」

「未婚率がまた上昇!大丈夫か?」

みたいな恋愛・結婚はして当たり前前提で

話が勝手に進んでいくけれど、

して当たり前だと誤解した時代が過ぎ去り、

するもしないも自由な本来の姿の時代が、

到来しただけの話では無いだろうか…。

 

「常識」が「非常識」に移行しつつあり、

「非常識」が「常識」になりつつある

過渡期みたいなものだろうか…。

 

当たり前が、

当たり前じゃない事が

当たり前。

 

この世の中から、世界から、

「常識」や「偏見」なんて

クソみたいな単語が

なくなればいいのになぁ。

善意と押し付けは紙一重

 

魔女の宅急便で、

こんなシーンがある。

 

おばあちゃんが孫のために作った

出来立て熱々のニシンのパイを

キキがホウキに乗って、途中雨に打たれて、

ずぶ濡れになりながらも一生懸命運ぶ。

 

しかし受け取った

絶賛パーティー中の孫は、

意外にも冷たい態度だった。

 

孫「またおばあちゃんから

ニシンのパイが届いたの」

孫「だからいらないって言ったのよ」

孫「私、このパイ嫌いなのよね」

 

私は当時、幼心にも、

「この孫はなんて薄情な奴なんだ!」

と心底怒りを覚えた事を今でも覚えてる。

 

でも今は、

少し孫の気持ちが分かる気がする。

 

 

私は、学生の頃から、

とある親戚の1人から

定期的に寝間着を

よく送ってもらっていた。

 

はじめの頃は、断るの理由もなく、

余分にいくつか寝間着があっても、

悪くないかな?と思い、

有り難く受け取っていた。

 

しかし年月が経つにつれて、

家にある寝間着の量が

段ボール1箱分、2箱分、3箱分…

と、徐々に増えていった。

気づいたら普段着より、

寝間着の量の方が多くなった。

 

そこで家族の中で、

これ以上貰っても保管に困るから、

そろそろ断ろうかという話も出た。

 

しかしある日、

その親戚は家族との雑談の中で、

こうサラッと言い放った。

 

親戚「寝間着メーカーのお嬢さんから

定期的にパジャマを貰っているのだけど、

正直貰ってばかりで困っているのよー。」

 

ふーん、なるほどー、合点した。

この人は「私のため」にでは無く、

「自分のため」に送っていたんだなと。

 

自分が送られて迷惑だと思っている事を

平気で他人にもやってのける無神経さ。

 

送られてくる寝間着達は、

「善意や愛情」でも何でもない。

ただの「押し付け」だった訳だ。

 

相手からは有り難く思われ、

自分は要らない寝間着が

手元から離れて一石二鳥!!

 

きっとある程度の値段がする

ブランドモノの寝間着を

タダで貰えた私達はとても喜んで、

感謝しているに違いないという、

親戚の完全なる思い込みと勘違い。

なんとも恐ろしい…。

 

 

宮崎駿さんは、魔女の宅急便

ニシンのパイのシーンについて、

書籍「風の帰る場所」の中で、

冷たくあしらう孫側では無く、

気がつかない内に

腹を立てさせる側、迷惑をかける側

になっているかも知れない

おばあちゃん側について、

焦点を当てて論じていて新しい。

 

 

良かれと思ってしている事が、

実は相手を怒らせているかも知れない。

自分が気づかない内に。←ココ重要!!

 

 

勿論、何か相手に贈り物をするという事は、

すごくステキな事ではあるのだけれども、

渡す相手についてどれだけ考えられているか、

もとても重要だと思う。

 

渡す時期は適切か、

渡す量・頻度は最良か、

渡す物は、相手が本当に欲するものか。

渡す側へある程度の配慮が必要だ。

 

あのおばあちゃんが作った

愛情たっぷりのニシンのパイ。

 

もしあのニシンのパイが

毎週末に届いていたら…。

もしあの大きいパイが、

ひとり家にいた時に届いたら…。

もしあのお孫さんが、

ニシンが苦手だったら…。

 

そう仮説を立てて考えながら、

あのシーンを振り返ってみると、

少し見え方は変わってくるに違いない。

 

「善意」と「押し付け」は紙一重

同じ行為(好意)であっても、

結局は相手がどう受け取るか次第、

なんだよなぁ…。しみじみ。